土曜日はスポーツクラブに行った。
北小金のほう。
久しぶりだったが相変わらずの店の感じだった。
10年以上前、仕事帰りにここへ来ていた。
あのころのメンバーはもう誰一人いない。
何も変わらないように思えた日々の暮らしも、振り返れば出会いと別れの繰り返し。
もう2度と会うことのできない別れもあった。
そして何度目か分からないが、2月ももう中盤をむかた。
3月がくれば卒業するものもいれば、退職するものもいる。
そしてまたいくつかの新しい出会いが用意されている。
出会いと別れを「飲み込んでは吐きだす」ような、まるで”自動販売機”のように例える人がいた。
出会いはいつでもちょっとした何かのただのきっかけ。
でもそれに意味が生まる。
それは自らが意思を持って「ボタン」を押せるかにかかっている。
と考えてみたりもした。なんかそんな歌があった。
勇気を出して「ボタン」を押したのか、軽い気持ちで押してしまったのか、間違ったボタンを押したのか。
いずれにせよ何かが出てくる。
でも人の出会いは機械には例えられないはず…。
福岡伸一さんという人が唱えた説がある。
「動的平衡」
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分子生物学者。講演会を聞かせてもらったことがある。
人間が食べたものは体内で消化され、エネルギーとなり、燃えカスが体外に排出される。
身体を機械の部品のように例える。
これが現在の生物の生命維持活動に対する基本概念。
車に例えるならば、食物はガソリン。消化してエネルギーを取り出し、それを筋肉で燃やす事で生命活動を行い、燃えカスは便や尿にして排出する。
臓器移植も、遺伝子組み換えも、外科的手術も基本的にはこの考えに沿っている。
しかし福岡先生の動的平衡論で言うならば、それの考え方は少し違う。
体内に入った食物は、身体のさまざまな細胞と分子レベルで瞬時に入れ替わり、置き換えられ、常に新しいそれと入れ替わり、古い組織が排出される。
人間の身体は3ヶ月もあればほぼすべての部位が壊され、新しいものに置き換えられる。
それを思い出した。
人との出逢いは、刺激から新しい自分を作り出す作業。
人から何かをもらうだけでなく、自分を壊し、新たな自分をまた作り上げる作業。
だから自分を磨きたいならば、常に自分を壊しては作り直す作業を止めないことだ。
出逢いと同じくらい別れも大切。
出逢いは新しい自分となり、別れは古い自分との決別。
でもそれらは互いに矛盾せず平衡を保っている。
だから怠惰な暮らしは自分をひたすら古くする。
出会いと別れから何を得るのか。それは自分の心の選択にかかっている。
今考えなくてはならない。これからどう生きるのか。
このままでいいのか。
どうなりたいのか、そのために今何をすべきなのか。