ダイエット日記 68.9kg

今週は飲む機会が多く、疲れてしまった。
のどが痛む。風邪を引いたようだ。
今朝は寒くて目を覚ました。

写実絵画の画家 「諏訪敦」という人のドキュメンタリーが流れていた。
娘さんを事故で亡くした両親の話。
30歳。結納後10日。南米ボリビアで起きた交通事故。
これ以上の悲劇は無い。
娘の名は恵理子さん。

この画家に肖像画を依頼した。
恵理子を蘇らせてほしい。

画家はこの娘さんのことは知らない。
写真を集め、両親から話を聞き、彼女に関わりのあったすべての人から彼女についての情報を得る。
そして彼女が辿った人生を学び、それを表現しようとしていた。
しかし途中まで描いて、止めてしまう。

恵理子さんのコピーのような絵を両親は望むのであろうか。
リアリティーを追求することは、どこまで突き詰めても埋まらぬ溝が残るということに気づく。
本来両親は彼女の死を受け入れなくてはならない。

だから両親も知らない「架空の恵理子さん」を表現するべきではないのか。
それは彼女がこの世に存在しない証拠であり、「あの世の姿」なのだ
両親が送った腕時計を外し、何かを訴えている。
それは時の無い世界に存在していることの証でもあるのだろう。

でも「架空の恵理子さん」を描くことは、表現を一歩間違えば両親に深い失望を与える。
その領域に踏み込んでいいのか。
創作してしまうことは美化ではないのか。

そして諏訪さんは踏み込んだ。

この両親に描きあげた絵を贈る日が来た。
そしてこの絵を見た両親は、見た瞬間涙を流した。

描かれた恵理子さんは、本人以上に本人なのだろう。しかし仕草、表情、この空気感から架空であると悟る。
これまで見せなかった一面を見せている。

彼女は両親に語りかけている。
「私はこの世界にいる、そして存在し続ける」

死を受け入れた。そして乗り越えた。
でも消えた訳ではない。
それはこの絵を見ていれば分かるのだろう。

この絵を見て思った。諏訪さんは単なる写実絵画の画家ではない。
絵に意思を吹きこむ。写真や模写では表現し得ないものを持っている人だと思った。


絵はこちら
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