ギフト

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毎日忙しい。気づけば今年も残すところ1月半になってしまった。

そういえば東京マラソンは落選した。

ちょっと微妙な気持ちで抽選を待っていたのだが、いざ「落選」と聞かされると、なんだか無性に走りたかったような錯覚に陥りそうになるから不思議だ。

「抽選」とか「限定」とかというとなんだかありがたみが出てくるのは気のせいか。
身の回りでも、応募したほとんどの人が落選している。
夫婦で3年間申し込んでも一度も当たらず、大会当日はボランティアをしている人もいる。
そんな人の話を聞くと、練習も少なく遅いくせに、参加できた自分が何だか申し訳なく思う。

それはそうと、仕事も忙しい。
これから年末のもろもろの作業や、点検などで出掛けないとならない。
課題もたくさんあるし。

ふと思いついたように、実家にお歳暮を贈ることにした。
たいしたものじゃない。
ほんの気持ち程度のもの。

なんでそう思ったのかは自分でもよく分からない。感謝の気持ちとか、お世話になったお礼とか、そういう趣旨のものでもない。

でも、いままではことさら義理や世間体のようなものが嫌いだった自分が、そういうことを考えるようにもなった。

それは歳をとった証拠なのか。

届いた宅急便の、荷物を受け取った時の相手の顔を思い浮かべてみる。

少し驚き、少し笑うだろうか。
それとも喜んで電話でも掛けてくるだろうか。

それとも遊びに行ったときに、ふと思い出したように礼を言われるのだろうか。

しかし本当の本当に、心のそこから渡したいものは、何だかあるようで見つけられない。

そういうものは、子供のほうが、より直感的に僕に教えてくれるものだと思い出した。

子供の描いた絵を見ると、そこには3人で並んで笑ってる家族がいる。

何を思い浮かべならが、どんな顔をして描いたのだろうか。

分からないが、描く視線の先にあるものは、きっと大切なものなのだろう。
そしてそれを大切にしてやらねばならないと思った。

渡したいものとは、そういう気持ちなのかも知れない。と思った。

結局は、お歳暮なんて、贈る方が相手のことを思い浮かべ、思案する。
それがある意味楽しく、そして「大切なもの」なのかもしれない。

自己満足と言ってしまえばそれまでだけど、そうすることで自分がなにかプレゼントされた気持ちになるから不思議だ。

確かに、もらったような気がする。