今日は外出で湯本まで行く。スーパーひたちは乗り心地悪いかも。
「~何でお金払ってまでしてあんな苦しい思いするのか。物好きだね」という声が聞こえる。
と前回書いた。
マラソンの話。
何か言い足りない気がしていた。
走りながら考えることがある。走っている間の脳は、結構暇だ。
だから走っているその長い時間にいろいろな思考が脳裏をめぐる。
仕事のことや家庭のこと。将来のこと。
疲れた
辛い
脚が痛い
もう止まってしまいたい
そしてその思考が最後に行き着く場所はいつも同じ。
「なぜ走るのか」
何のために走っているのか。
作家の村上春樹が書いていたのを思い出した。村上春樹はマラソン好きである。初めて知った。
「走ることは自身の老いの確認です」という言葉を見つけた。
10年前は回復が早かったのに今では辛い。走ることとは、日に日に老いて行く自分を否が応でも確認できる作業。そう、できてしまう。
という。
しかしその現実に向き合い、突きつけられた事実から目をそらさずに立ち向かうことが、走り続けるということなのかとも思える。
それは立ち向かうと同時に、老いを「受け入れる」ということでもある。
いや「受け止める」だろう。
走ることを止めるのはたやすい。
時間と金を使って辛いことをする必要はない。足を止めればそれで終わる。
1周5キロそこそこの皇居でさえ辛いのだ。
半蔵門からなだらかな下り坂。何度か曲がり角を過ぎて穏やかに下っていく。
お堀が夜景に反射して美しい。
桜田門から皇居前広場は平坦な開けた場所。
東京駅から一直線に続くその道は都心のメインストリート。
やがて道は細くなり、工事現場の騒音や悪臭、小刻みに荒れる路面となり、大手門、竹橋を過ぎる。
三宅坂の森の細くて急な上り坂が辛い。都心でなければ心細いほどの細道。
辛い上り坂を越えると、一気に視界が開けて千鳥ヶ淵とお堀が遠くまで見わたせる。
そしてひたすらバンピーな細道を超えれば、またここに戻ってこれる。
下り坂、上り坂、美しい景色、辛く暗い道。その繰り返し。
ひとついえるのは、永遠に続く下り坂も、上り坂もない。
それは「走ること」を「生きること」に置き換えているのかもしれない。
だから止められない。
止めたくない。
喜びはいつまでも続かないかわりに、悲しみも永遠には続かないのだ。時が経てば薄れて忘れる。
ちょっとの幸せと、辛いことの繰り返し。
走ることとは人生の縮図。
生まれてから40歳までの人生が、マラソンコースだとしたら、上り坂も下り坂もあった。走ることに疲れ、辛さで投げ出したいと思ったことは数え切れない。
そして自分の弱さや甘さに気づく。
マラソンにはゴールが決められている。
人生のゴール地点は決められてないが、マラソンという人生の縮図の中で、ゴール目指して走っている
気がする。
それは、
坂を登りきった後に見える、すばらしい景色を見てみたい。
あの悪路を超えた後に見える輝く水面を見てみたい。
そんないくつもの小さな希望を見出して、日々の暮らしをがんばることでしか乗り越えられない。
もう少し、あと少し。
そんな事の繰り返し。
42.195キロは、42キロの苦しみを乗り超えた195メートル先のテープを切るためにあるのだと思う。無数の苦しみを乗り越えたこと。それが心の糧となり、縮図であれ、紛れなく人生のゴールなのだから。
そして、その先には、ひとつ新しい人生が、また始まっているような気がするのだ。
だからその一瞬の喜びに触れたくて、その景色を味わいたくて走っている。
だからもう一度、いや何度でも、ゴールしたくて、その一瞬の喜びのために、自分は走っているのだと思う。