仲間

草野球チームの存続について聞かれた。
ほとんど廃部寸前のチーム。

ここ数年、無理やり試合には人をかき集めて出場するが、付け焼刃でどうにかできることも無く、勝っても自分(達)の活躍ではなく、また、負けても仕方ないと諦めている。
みんなそれぞれの暮らしがあり、それに追われているようだ。

あの頃は、仲間で経験したことが全てであり、それが暮らしであった。
旅行があり、結婚式があり、飲み会があり、車やバイクがあった。
正月も、花見も、夏休みも、マージャンもパチンコも競馬も、そして野球もそこに確かにあった。

悲しい知らせも、むなしい出来事も、共有することでほんの少し薄まった。

そのひとつひとつの出来事が、自分のことであり、皆仲間だった。

しかしそんなことは長くは続かないだろうと、心のどこかでみんな気づいていた。いや気づきかけていたけど気づかないふりをしていたように思える。
ぽつりぽつりと人は離れ、新しい暮らしに向かって進んでいった。

そしていまがある。
それは悪いことではない。仕方ないことだ。

夢みたいなことを言わせてもらえば、昔の若かったころのように、もう一度あのときの友達と、笑い合いながら草野球をしてみたい。

そう思う。

でも分かっている。

自分の昔の思い出が、美化されている。
いくつかの思い出したくない過去もあったはず。

美しい思い出に変わっている。

でも、月に一度、いや半年に一度でもそんなことが出来たら楽しいだろうか。
それとも月日が流れ、人の心は変わり、年老いて失望し、現実を思い知らされるだけだろうか。

ちょっと昔のことだと思っている20代のあの頃の思い出が、もう20年以上昔のことになっている。

そんなに月日は過ぎてしまったのか。

もう今はとっくに、若いものの時代

そして、至って平凡な、使い古された歌詞のような結論に達する。

「帰りたい 帰れない 青春と呼ばれた日々」


どんなに願ってもあの時と同じ時間はもうおとずれない。

来た道を戻ることは出来ないのだ。

だからもうこれからは、あの時と同じじゃなくてもいいのだ。

若さも希望も無くても、野球をすればいい。

この歳だから理解できることもあるはずだ。

戻れないなら道を見つけてどこまでも進むしかないということだ。

それぞれのゴールを目指し進む。


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