8月15日

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15日は終戦記念日で、式典など観ていた。
蒸し暑い日だったが、64年前はどんな終戦をむかえていたのだろうかと思った。
想像もつかない。

欧米諸国が次々とアジアを植民地化する中で、日本は半年分しか備蓄のない石油を禁輸され、「ハルノート」を突きつけられた。
到底日本は飲めない内容だった。

アメリカとしては「大儀」が必要。
先に日本側に手を出させる必要があった。

そもそもアメリカは同盟国であるイギリスをドイツから援護するため、ヨーロッパ戦線に参加したいと思っていた。

しかしナチスドイツはいくら挑発しても乗ってこず、アメリカの世論は戦争反対だった。
だから日本にアメリカを攻撃させ、対日宣戦。日本の同盟国であるドイツにも宣戦できる。

真珠湾奇襲」は、事前に日本の攻撃計画についてアメリカは暗号解読に成功している。
あえて「ヤラせた」のだと思う。

「卑怯な奇襲攻撃を仕掛けてきた日本」
「リメンバーパールハーバー

アメリカ国民を奮い立たせる充分な出来事ができた。

先に暴力を振るったほうが悪いとは限らない。
そう仕向けて先に手を出させて、何倍にもして叩きのめす。
大人の喧嘩のやり方だ。

1941年12月8日未明、真珠湾奇襲攻撃で幕を開けた太平洋戦争は、1945年8月15日に事実上終わりを告げた。(正確には9月2日)
沖縄に上陸され、原爆を2発落とされた。

310万人もの日本人が死んだ。

何が正しかったのかはわからない。
何が間違いだったのかもわからない。
そういう時代だった。
としか言いようがない。
今日は8月15日、終戦記念日


実家に来た。送り盆。

祖母は明治生まれだった。
戦争も体験している。祖父は運よく戦地に送られなかった。

夕方からちょっと走りに出かけていた。7時半ごろになってしまった。
父は「おばあちゃんは、お前に“送って”欲しいと思っているだろうから、待ってたんだ」

そう言って、灯のついた提灯を僕に渡した。
お前に送ってもらえたら、おばあちゃんも喜ぶと思うぞ。
そう言って笑った。

墓に提灯から取り出したろうそくを立てて手を合わせた。
炎は風に負けずに揺らめいていた。
あの炎は明治、大正、昭和、平成を生きた祖母の炎なんだなと思えた。
風や雨で消えそうになりながらも生きながらえた。
風に揺られて消えそうで消えない炎は、生きてきた道のりのように思えた。

親孝行など何もしてやれなかった。
悲しくなった。

僕もあの炎のように命を燃やし続け、次の者へ生きた証を伝えたいと思った。