土曜日は年に一度の仕事の集まりがあった。疲れた。
3月ももう半ばで、年度も終わりつつあるが、難題ばかりだ。
不景気。今こそ底力。などという。
今日は日曜。休みだが疲れて寝てばかりいた。
タリーズにコーヒーを飲みにきた。
考え事をしていた。
底力とは何か。「底」とはどこで、何があるのか。
辞書を引くとこう記してある
「ふだんは目立たないが、いざというときに出る強い力。」
腹立たしくなってきた。
そう簡単じゃないはずだ。
来週も忙しい。
「底」が心の一番奥の場所だとするならば、そこで何かを出すならば、実質ではなく本質に迫ることが必要だろう。
そもそも不景気の原因はリーマンショックではないと思う。それはただのきっかけだ。
戦後の復興を経て、いつしか使い捨て文明、消費社会が人々を豊かにすると信じて、高度経済成長がどこ
までも続く幻想を抱いたまま、ついに人口が減少し始めた。
物が無い時代は、大量に何でも安く作れば売れた。
何でも。
かつて物を所有することが豊かさの象徴だった。
テレビや冷蔵庫、洗濯機、マイカー、マイホーム。それを目標にがんばって働いてきた。
今じゃ物が溢れてる。
昔高価だったバナナもパインも高級果物ではなくなり、みかんはオレンジにとってかわられた。
フライパンでも包丁でも、食器でも、いまや日用品は100円ショップで何でも手に入る。
携帯電話もパソコンも100円で買える。
髪は1000円で切れて、音楽は1曲100円でダウンロードする。
情報が手に入るから地図も新聞も買わなくても困らなくなった。
年賀状は電子メールで“あけおめ”と何人にでも送れる。
でもなぜか誰も豊かになれない。
物が溢れても豊かになれない時代になった。
心を豊かにする価値とは何かが分からなくなる。
むしろ心は飢え、虚しさは積もり、言いようの無い貧しさが蔓延し、疲弊していく。
たとえば物を安く作る事ひとつにしても、不幸の連鎖は生み出されている。
安く作る事を追求すれば、安い原料使って人件費の安いところで製造するのが一番だ。
そのために企業は海外から原料を調達して、人件費の安い国に委託製造し、国内での人員はリストラし効率を上げる。
いままで国内で需要のあった原料や人員は無くなる。
だって国産は高いから。
50円のボールペン、300円の包丁、その影で多くの日本人が職を無くし、給料を減らされ苦しんでいる。
薄利多売しても、もうそんなに需要は無い。
消費者は安いものを買えることでメリットがあるはずなのに、その消費者もまた給料をカットされているから、購買意欲は上向かない。
誰も得しない。
むしろ余計な買い物はしなくなった。
海外に資金は流れて、国内の経済は循環しないから何一つ豊かにならない。
物量では心はもう心を豊かにできないのだ。
被害者であり、加害者だ。
先日東京マラソンに出て思った。
沿道では、スタートからゴール地点まで、あの雨と寒さの中応援してくれる人々の列は、一箇所も途切れることなく続いていた。
僕のことなど誰も知らないはずなのに、想像をはるかに上回る人々が、かじかむ手を振り上げ応援してくれた。
そう感じた人は、僕以外にも大勢いたと思う。
この日のために、おにぎりやコーヒーや、食べ物を用意して配ってくれる人がたくさんいた。
わざわざ家で用意して、知らない人に振舞うためにやっている。
スプレーやシップ、包帯を用意して、足が痛くて辛いランナーに、応急処置をしてマッサージをしている人がいた。
あの大会はたくさんのボランティアの力で支えられていた。
荷物を預ける場所も、給水地点でもゴールでも、その後の荷物の受け渡しでも、みんなにとても親切にしてもらえた。
何百人という人に世話になったり、教えてもらったり、声援を受けたが、不愉快な対応をする人は僕の知る限り誰一人いなかった。
しかもそれは、無償でされているというところに価値があるのだ。
金のためじゃない。
自分の気持ちがそうしたいから、ランナーを励まし、応援している。
だから朝早くても、雨でも、寒くても、やっているのだ。
ゴールを目指すランナーに共感するから何かしたいと思うのだ。
10年前は、ここまでの規模のボランティアが参加するような現象は見られなかったと思う。
穿った見かたをしてみれば、主催者が人情的な話を作って大会を盛り上げようとしているのかと思うかもしれない。
でも走ってみると、そうではないことがわかる。
きざな言い方かもしれないが、きっとあの大会に参加した人だけでなく、ボランティアも、沿道の人も、42.195を目指していたのだと思う。
そうでなければこの現象を説明できまい。
きっと日給1万円で人を雇っても、こういうサービスは受けられないと思う。
良く教育をしたとしても、そんな気持ち見透かされてしまう。
もはや人を豊かにしてくれるのは物でも金でも無い。
心なのだ。
心の時代。
心を豊かにする仕事をしていかなければならない。
その価値と大切さを子どもにも教えていかなければならない。
底力の意味はそうでありたいと願う。